うるう秒

何も用事がない日は一日中ゴロゴロ過ごしてしまって夕方になって後悔し始めて憂鬱な気分で一日を終えていることが多いような気がしている。そんなことがないように今日は早く起きるようにした。雨が降っていてとても涼しくていい一日になりそうな予感はしたのだけど、結局何もしていない。

実は今日はうるう秒のためほんの一秒だけど一日が長かったらしい。だけどたったの1秒では実感することもなかった。1秒ではなくてもうちょっと長く1時間ぐらい長くしてくれたら喜ぶ人も多いだろうにと思った。せっかくの休日なのにくだらないことを考えているだけの一日になりそうだけど、明日までの宿題ぐらいは明るいうちにやっておこうと思う。

あけましておめでとうございます

Ceramic Kagami Mochi

あけましておめでとうございます。去年つくった陶器の鏡餅を床の間に飾った。蜜柑が大きくて不格好で浮いた感じだ。小さいみかんを探してこよう。でもまあまあいいかなと我ながら思う。今年も色々つくったけれど、この鏡餅は特にお気に入りだ。作っている時から楽しかったのだから当然だけどね。(中に何を入れたのかは秘密。)

新年を迎えて「今年こそ」という気持ちが強い。「今日こそ」「今週こそ」「今月こそ」の続きなのでなにも変わっていないようだけど、今年こそは本当に「今年こそ」なのだ。このところ欲が深くなってきていて、生命力がみなぎっているような気がするし、何かできそうな予感がしている。やりたい事はいっぱいだけど、それら全部をやる一年にしたい。

It’s Now or Never

1月8日はエルヴィスの誕生日だった。そういうわけなのか今月はエルヴィスの曲をよく聞いているような気がする。やはり「Elvis: 30 #1 Hits」が何度でも聞く一枚なのは以前にも書いたとおりなのだけど、その30曲の中でもいま一番は「It’s Now or Never」だ。エルヴィスのカンツォーネの曲はみんなヒットしていて、そんな中でも「It’s Now or Never」は1000万枚以上売り上げた大ヒット曲らしい。2年ほど前にお酒のCMでも使われていたと思う。

「It’s Now or Never」 というのは、「今しかない」という意味なのだろうけど、そんな「Now(今)」なんてほんとうにあるのかな。「今」がその「Now」だと思えれば何度でもいつでも「Now」になるのだろうという気がする。「Now」を過ぎてしまったら「Never」だなんてことはないと思う。そうはいってもやはり、(むしろ、そうだからこそ)「It’s Now or Never」という気持ちでいなければと思う。

I have a dream

アメリカの先週の今日は、キング牧師の日だったらしい。僕がネットで”I have a dream”の演説を見つけたのも偶然ではないかもしれない。英語だから何を言っているのかよく解らないけれどかっこよかった。キング牧師は夢があると言っていた。夢があると誰かに言えるのは実はかっこいいことだ。その夢のことを大勢に話せるなんて本当にかっこいいことだ。僕は夢があるのかどうかも分からないし、その夢を誰かに話すなんてできるのか自信がない。

ホームページ辞典

このところ部屋の掃除ばかりしている。マツイ棒を買うかもしれない。掃除するたびゴミは増えるのに、部屋は全く片付かない。それに3分おきに懐かしいものが出てくるから、片付きそうもない。

懐かしの「ホームページ辞典」が出てきた。なつかしいなんてものじゃない。大学1年生の定番「自分のホームページをつくろう」という授業のために、今は亡き大衆書房で買った本である。その授業から、私はホームページを作るようになって、テレホーダイの時間が待ち遠しい日々が始まったのだった。その頃のまさに座右の書といえるのが、この本だった。いま読み返すと「こんなの見つけたら笑っちゃうよ」という感じのサンプルだらけなのだけど、当時はこれをなんども読み返したものである。

そのほかによく見ていたのはWiredのWebmonkeyで、しばしばサンプルを拝借した。いまはどこに行ったのだろう。そんなネットサーフィンをするうち、ホームページという呼び方がダサい和製英語であるということを知り、今後一切ホームページなんて呼び方はするまいと思った。それに我が家のプリンターがヒューレット・パッカード製であったこともあって、ホームページをHPと省略している人がどうしても好きになれなかった。HPをわざとらしく「エイチ・ピー」なんて読んでいたのも今となっては恥ずかしい記憶だ。いまだに「ホムペ」や「メーリス」という呼び方に馴染めないのもそのあたりに理由があるような気がする。

閑話休題、実はそろそろ私もサイエンティストとして「ホーム」ページを作ろうと思いはじめている。ホームページと言ってももう何年もはウェブログしかやっていないのでHTMLなんてさっぱり分からない。「ホームページ辞典」が出てきたことだし「ホームページ」で行こう。進捗状況を報告するのでよろしく。

教科書を読む

教科書をよむのは本当に楽しい。教科書をよむのというのは、教科書を通して著者と自分が勝負しているようなものだ。碁盤をはさんで一局の碁を打つように、こちらが一手打つと相手がそれに応えて一手打ってくれる。教科書をよむというのはその一手一手の繰り返しのようなものだ。

教科書に書いてあることが実は自分の理解を遥かに上回るものだったということがある。それが想像したこともないほどにとてつもなく広く大きなものだったということがある。そう気付かされて呆然とする。もう全く勝負にならないのだ。むこうから象の群れがやってきて逃げだす暇もなく一瞬で踏み潰されたような感じだ。ぺらぺらになった自分の亡き骸をなんとか膨らませてまたとぼとぼと歩き出そうとする。そうするとまた大きな象の群がだあっとやってきて今度も一瞬で踏み潰される。

教科書を読むのってかなり楽しい。もっといろいろな教科書を読んで勉強しなければいけない。

二種類の人間

世の中には二種類の人間が存在する。李白と杜甫である。私は杜甫だろうか。理想と現実とを往来する杜甫の詩には共感することが多い。

望岳
岱宗夫如何
斉魯青未了
造化鍾神秀
陰陽割昏暁
盪胸生層雲
決眥入帰鳥
会当凌絶頂
一覧衆山小

若き日の杜甫の様子が目に浮かぶ。その後、杜甫は泰山に登ったのだろうか。この気持ちをかなえることはできたのだろうか。泰山がどのようなもか、天下ははたして小さいものなのか。この詩は私のいまの気分をよくあらわしてくれているように思える時がある。