竹茶杓の制作記録

先日、竹の茶杓を作ったのが楽しかったので、これからもっと頻繁に作ろうと思った。それに、ひらめくところもあったので、その気持を書き留めるためにも、ここにその制作の記録を残したい。まだいい方法には程遠いので、この記事を見て「ここをこうしたほうがいいよ」というような事があれば、ぜひコメントなどで教えて欲しい。この制作方法はわたしがいまの時点で良いと感じている方法だ。

making of chashaku

今回の材料は壊れた熊手だ。先の手の部分がたいていちょうどいい太さで、竹を割る手間が省けていい。竹を割るのはけっこう技術がいるもので、素人にはなかなかうまく割れない。針金などをはずして熊手を分解する。

making of chashaku

これだという位置で、出来上がりの長さよりちょっとだけ余裕をもって、のこぎりで切る。後に火であぶって曲げるときに期待した場所とずれて曲がってしまうことがあるので、長さに余裕があると櫂先の長さもある程度は修正可能だ。節の位置はずれても問題ないが、櫂先が長かったり短かったりすると致命的である。失敗することもあるので一本だけでなくて複数まとめて切っておくといいと思う。竹を水洗いして汚れなどを落としてから、鍋でぐつぐつと5分か10分ほど煮る。

making of chashaku

鍋から取り出して熱いまま、ろうそくの火であぶって少しづつ曲げて撓めを作る。私のような素人には一番難しいところだ。どちらの面をあぶるというのはあまり気にしないが、ただ表側は焦げないように気をつける。曲げるときには、力がいるし火が熱くて指がやけどするので、櫂先の側は、ペンチやプライヤーを使うと楽だ。ただ竹の表面に傷がつかないように湿らせた鼻紙などをかませるといいように思う。急に曲がり始める瞬間があるので、その瞬間をとらえて曲げるが、曲げすぎないように気をつける。一気に曲げるとしばしば竹が折れる。割っただけの竹に撓めを作ってそれから茶杓の形に削るほうが、竹が太いので、もしも曲げる瞬間にミシミシと折れる音がしてもその部分をあとでぜんぶ削り落としてしまうことができていい。そういうわけで、私はその順番で作っている。曲がったらすぐに冷水に浸けるとその形で固まる(らしい)。

making of chashaku

そのあとはただただ小刀で好みの形に削るのみ。竹は木と比べて硬いので研いだりして切れ味を良くしておくとよい。勢い良く小刀をすべらせると竹が一気に割けて細くなってしまうので慎重に少しづつ削るようにする。

making of chashaku

なんども机において見なおして手直しする。最後にヤスリをかけるといいという人もいるけれど、ヤスリを掛けるとボンヤリとした茶杓になりがちなので出来れば使いたくない(ただしあまりささくれだっていると帛紗に引っかかって帛紗がボロボロになる)。ここで完成なのだが、そのまま放っておくとせっかく曲げた部分が次の日になると伸びて戻ってしまうので、曲がったままで一晩ぐらいは固定しておくといい。私は机の引き出しを開いて幅を調整して茶杓を挟んでいる。寝ぼけて引き出しを閉めると茶杓が折れるので注意する。

この日つくって感じたのは、材料は色んな所に転がっているし、道具もなんだって使えるので、なにかわざわざ新たに買ってきたりすることはないのではないかということだ。むしろそこにあるものを使って何かを作るということが、いわゆる見立てというような考えにも通じているような気がする。それから失敗を気にせず、どんどんいろんな茶杓を作るほうがいいと思った。ダメだなと思った時はたぶんダメなのであきらめて幾つも作ったほうがいいと思う。本を読むと、茶杓の長さだとか切止めの形だとかいろいろ面倒くさいことが書いてあるけれど、そんなのはどうでもいい。どんな茶杓ができてもそれを使うにふさわしい場所はあるので、どんな茶杓を作っても間違いはないと感じている。そういうことを考えてちょっと気楽になったのでもっとたくさん茶杓を作ってどんどんブログにもまとめていきたい。

卒業制作

chashaku

卒業記念に茶杓と香合を作りました。茶杓は久しぶりに作ったのですが、思いのほかうまく出来たと思います。たまたま見つけた壊れた熊手に使われていた竹をよく見たら、良さそうな胡麻竹で、しかも太さもいい具合だったので分解して茶杓を作ることにしました。撓め(先の曲がっている部分)を作るのが難しくてあいかわらず運任せなのだけど今回は悪くない出来だと思っています。

kogo

香合は少し前に作ったものです。岐阜大学の学章の形になっています。岐阜大学のイメージカラーはオレンジと黒ということになっているのですが、私には黄瀬戸と飴釉に見えてならなかったので、これは陶器で作るしかないとずっと前から考えていました。なかなかいい具合に釉薬が溶けてくれました。

つぎは熊手の柄の部分で共筒が作れたらいいなあと思っているところです。

再び、川喜田半泥子のすべて展

また、「川喜田半泥子のすべて展」に行ってきた。この企画の巡回も半泥子の地元である三重県立美術館にやってきてこれが最後の場所である。岐阜県陶芸美術館で見たとき以来、いろいろな本などを買っては読んで、川喜田半泥子のことがますます気になっていた。色々なエピソードが書かれているのだけど、全部本当におもしろいものだった。

半泥子は窯を焚くときや、寝る前にしばしば茶杓を削っていたそうで、この展覧会でもいくつかおもしろい茶杓が出ている。かつて茶杓を作って筒をこしらえていた時に、筒の底を削りすぎて穴をあけてしまったらしい。その筒に茶杓を収めてみたら茶杓の切留のところが出てきてしまったらしい。それでその茶杓の銘は「おみくじ」にされたのだそうだ。茶杓の方には「大吉」と書かれているらしいから、なかなかイケイケな茶杓だと思う。

三重県立美術館はやはり、半泥子のゆかりの地であるし、企画展最初の週末ということもあって、あいにくの雨天にもかかわらず混んでいた。当日は津市外でも川喜田半泥子のすべて展に連動した講演などもあったみたいで、それをはしごしてきた人もいたみたいだった。岐阜と三重とでは展示のしかたが違ってこちらもいいなあと思った。ガラスケースの時はいつも、ちょっと行儀が悪いかもしれない、正面からみている人には迷惑だろう、などと考えながらもついつい後ろに回ってみたくなる。後ろからしか見えない部分があるのだから、気になるのも仕方がない。ほかにもそういう人がたくさんいたことに勇気づけられて、私もそれに倣うことにした。新たな発見もあって満足した。半泥子が撮りためたビデオも上映中でこれも必見である。

帰りに石水博物館にも立ち寄った。ビルの二階にあるというし、そのビルもなんとも冴えないオフィスビルだったので期待はするまいと思ったが、これがなかなか侮れない場所だった。「川喜田半泥子交遊録」という題で、いろいろな手紙や、半泥子のこういうの広さを感じさせる人たちの作品があった。有名人の若い頃の手紙などは本当におもしろいものだと感じた。そういうわけでまた行きたいと思っている。

お棗、お茶杓の拝見を・・・

茶道の稽古で辛いところは、時間がたつとすぐに忘れてしまうことだ。家でもときどき稽古をしているけれど道具が無いのがよくないのか、ほとんど覚えられない。本を読んだり、付録のDVDをみたり、それでもなかなか覚えられない。ちょうどいま、NHKで「茶の湯 表千家」を放送中なのでこれを見て復習しようと思っている。

なかなか覚えられない点前の中でおもしろいのはやはり「拝見」だ。亭主と客とが会話をするのはおもしろいと思う。茶席と言うのはそもそもそういう場所だ。喫茶店ではないんだからウエイターが黙ってテーブルにコーヒーをおいて行ったり、無口なマスターとカウンターをはさんで一人コーヒーを飲むなんてことはない。実際の茶席ではそういうことはないのだけど、稽古はそうも行かない。教科書をなぞるのもままならないのに、それ以上のことなんてできない。形をまねるばかりで、亭主と客とは、正しくは亭主役と客役とは、赤の他人を演じているのだ。これだからぎこちないのだとおもう。そんな中で会話を交わす瞬間はやはり良いものだ。決められたセリフを暗誦するだけとわかっていても楽しいものだ。

そうは言ってもやはり、変なのだ。たしかに、茶碗の拝見をしてもなんにも分からないから、わかるようになりたいと美術館に足を運んだりして少しわかることができたような気がする。だけど、毎回のように拝見している棗と茶杓が全くわからない。違うけれど何が違うのか、違うからどうなんだ、と言うことがわからない。どこに目をつけたりどう見たらいいのか、さっぱりなのだ。頭の中は空っぽなのに「拝見をお願いします。」なんて言うのだからおかしな話だ。何もわからないと知りながら、棗の蓋をとって覗いてみたり、茶杓を裏返したりするのだ。なんて滑稽なんだ、これではイカン、と最近強く思う。空虚でない拝見を始めるべき時期が到来したに違いない。

川喜田半泥子のすべて

「川喜田半泥子のすべて」展のことを書かねばなるまい。間違いなく去年見た企画展では一番だった。ダントツの一番だった。もう一回ぐらいは見ておかならければと思う。岐阜県現代陶芸美術館からはじまり現在も巡回中で東京、横浜、山口、さいごに三重に帰ってくるみたいだ。

何でもありでやりたい放題なものをいきなり見せつけられた。悪ノリかよというのもあった。遊びゴコロが最高に嬉しくて私はなんどとなく繰り返し感動した。半泥子と言う人は絶対にもう楽しくてたまらなかったのだ。笑いをこらえながら作ってたかもしれない。銘の感覚がこれまた痛快でいいのだ。とにかく半泥子をうらやましく感じた。

自分の家に近所のお百姓を呼び出して、茶を点ててはのませていたらしい。その前で、あられを口にほおばって茶碗を片手でつかんで飲み干してみせたそうだ。何でもありなのか、そもそも何も無いというべきなのか、いやいやそういうことじゃないんだ、と妙に納得した展覧会だった。

有楽苑で初釜 2010

Yuya Tamai

こいつは春から縁起がいいわい~、なんてことを期待して愛知県犬山市の有楽苑に行ってきた。わざわざ1月3日に行ったのにはわけがある。年のはじめは初釜だ。初詣よりも初釜だ。せっかくいくなら有楽苑こそふさわしいはずだと思った。なぜなら国宝茶室の如庵(NYOAN!)があるからだ。

如庵がある、と言っても中に入り込めるわけではなく、窓の隙間から覗くだけだ。こういうとき、出目金だと隅々までいろいろ見えるのじゃないかと思う。こっちはしかもメガネだからぎりぎりまで茶室に近寄ることもできない。それにしても茶室というのは暗い。電気の明かりの無い中で一杯の茶をのむというのは興奮するものだろう。窓から茶室の隅々を覗き込みながら、自らがそこで亭主として、あるいは客としてそこにいる姿を想像した。

そのあと道具の拝見をしたのだけど、ひとつ前の人たちがかなりの手練で困った。いきなり茶碗をグワシとつかんで裏返し始めたのだ。手当たりしだいに触っているではないか。こんなこともできるのか、さすがは初釜、出血大サービスか。そう期待してしまったが、そのオバサン達がやり過ぎなだけだった。その勢いにのって、「茶杓を触っていいですか」と聞いてみたが、「だめだ」って言われた。当たり前か。

それで、肝心の茶席の方はというと勝本師の言うとおりで、ちょっと期待はずれだったかもしれない。待合での息が詰まる用な緊張感とは対照的に茶席では気が抜けてしまった。部屋が広いから深呼吸もできるし、周りのすべてを見渡すこともできる。隙間が多すぎて締まらないような気がした。大寄せの茶会の物足りなさというのはここに問題があるのではないか。狭くて後ろを振り返ることもできない、つばをのむとその音を聞かれる、視線を上げて相手の顔を見られない、そんな重苦しいくらいの場所がいいかもしれない。千利休はそんなことを考えて二畳の茶室を作ったのだろうか。

「道の駅織部の里もとす」と「織部展示館」

道の駅 織部の里もとす Michi-no-Eki Oribe no Sato Motosu

ずっと気になっていた「道の駅織部の里もとす」と、そのなかにある「織部展示館」に行ってきた。この道の駅は行ってみる価値があった。まず、立派な山門が出迎えてくれるので通り過ぎることはない。そして、その中に「織部展示館」という古田織部や織部焼を紹介する展示館がある。これがなかなかいい展示館だった。

織部展示館の入場料は300円だった。300円がもったいないのか入らない人がいるおかげで、展示館の中は騒々しくもなく、落ち着いて展示物を見ることができてちょうどいいと思った。そんなことより、この展示館に入ってすぐに出迎えてくれるのが、私が気になっていると言っていた「『泪』の茶杓」だ。正確にはその複製品だ。その泪の銘の茶杓と、古田織部が千利休の位牌代わりに拝んだという真っ黒の漆塗りの筒と共に置いてあった。複製品とはいっても、これを見て感激した。茶杓の展示のすぐ下の解説によると、千利休は切腹に際して古田織部と細川三斎に茶杓を送っていて、それぞれの銘が「泪」と「命」だそうだ。この銘はのちの時代になって与えられたものらしい。

道の駅の中にある展示館としてはなかなかの出来だと思った。たしかに財政的に限りのある中ではあるものの、写真と実物とがをうまく組み合わされていて、解説がなかなかうまいおかげもあって、古田織部という人がどういう生涯を送ったのかをよく知ることができた。茶人としてではなく、戦国武将としても古田織部は活躍していたのだと知ることができたのが私にとっては大きかった。展示館のなかには古田織部のほかに、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の像もあって、そしてその三人が古田織部について語ってくれるという趣向は私の好みにも合って興奮した。

この道の駅では「織部焼の絵付け体験」や「そば打ち体験」などもあって楽しいところだと思う。数は多くないものの駅の中では織部焼も売っている。それに道の駅と言えば定番の、新鮮な野菜や果物といった農産物などの特産品もあった。「織部の里の米」というお米まで売られていた。それからこの夏の時期なので、カブトムシやクワガタがたくさん売られていた。オオクワガタが5000円以上で売られているのを見たのは初めてだったので少し驚いた。私は食べなかったけれど、この道の駅では「織部薬膳弁当」や「織部正定食」というのがかなり人気らしい。それに、そばは注文を受けて打っているので、時間は少しかかるけれど味には自信ありとのことだった。

お茶杓のご銘は?

いまは徳川美術館について予習の最中である。勝本師に教えてもらった徳川美術館の収蔵品はさすがだった。そんな名物ぞろいの収蔵品の中でも特に気になっているのが、千利休の作った茶杓である。つけられた銘は「泪」というから哀しげだ。この茶杓には物語があって…

天正十九年(一五九一)二月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が、自からこの茶杓を削り、最後の茶会に用い、古田織部に与えた。その後、古田織部はこの茶杓用に、長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられる。筒は総黒漆塗で、これを垂直に立てると、いかにも位牌らしくみえる。茶杓は白竹で樋が深く通り、有腰で、利休の茶杓の中でもとくに薄作りに出来ている。千利休-古田織部-徳川家康(駿府御分物)-初代義直と伝来した。

なかなか生々しいなということで、なおさらこの目で見てみたい。だが残念なことに現在はこの茶杓は展示されていない。展示の時にもまた足を運ぶことにしよう。

茶杓に限らず名物には素晴らしい銘がつけられている。様々な銘を聞くたびにいろいなことを考えてしまう。写真だけでなく、実際にその茶杓を目にしたら忘れられないかもしれない。