カテゴリー: 日記

  • 愛情物語

    愛情物語という映画を見てしまった。わたしはずっと、こういう映画は見てはいけないと考えていた。角川春樹だとか赤川次郎だとか、そういうのは何のポリシーも持たない連中が見るものだと長いこと信じていた。だけどいつごろからかそういうのこそ見た方がいいんじゃないのかという疑問が増してきた。キーワードひとつで選んでしまう今は、マイブームということだろう。

    角川映画と言うのがまず、引っかかっていた。角川映画って一体なんなんだって聞かれても、うまく答えられる人は少ないだろう。だけど、角川映画ってああいうのだなとたいてい思い浮かべることはできる。「ああいうの」が好きになれなかったのに、今は大好きなのだ。不思議だ。角川春樹ってカッコいいとさえ思う。それから赤川次郎の小説と言うのも昔は好きになれない気がしていた。赤川次郎の小説そのものというより、赤川次郎の小説を読んでいるという人達が好きじゃなかった。クラスにかならずいる赤川次郎が好きな女の子って、自分とは決して話の合わない人たちだと思っていた。今更に好きになるというのはなぜだろう。

    それでこの愛情物語では例のごとく原田知世が出てくる。話の途中で脈絡なくミュージカルシーンが始まる。こういうのもおもしろい、と思うようになってしまった。設定の一つ一つが飽き飽きとするもので以前なら耐えられなかっただろう。そんなベタの波状攻撃に耐えられるようになったのは自分自身の成長のおかげだと考えることにしている。

  • 教科書を読む

    教科書をよむのは本当に楽しい。教科書をよむのというのは、教科書を通して著者と自分が勝負しているようなものだ。碁盤をはさんで一局の碁を打つように、こちらが一手打つと相手がそれに応えて一手打ってくれる。教科書をよむというのはその一手一手の繰り返しのようなものだ。

    教科書に書いてあることが実は自分の理解を遥かに上回るものだったということがある。それが想像したこともないほどにとてつもなく広く大きなものだったということがある。そう気付かされて呆然とする。もう全く勝負にならないのだ。むこうから象の群れがやってきて逃げだす暇もなく一瞬で踏み潰されたような感じだ。ぺらぺらになった自分の亡き骸をなんとか膨らませてまたとぼとぼと歩き出そうとする。そうするとまた大きな象の群がだあっとやってきて今度も一瞬で踏み潰される。

    教科書を読むのってかなり楽しい。もっといろいろな教科書を読んで勉強しなければいけない。

  • お棗、お茶杓の拝見を・・・

    茶道の稽古で辛いところは、時間がたつとすぐに忘れてしまうことだ。家でもときどき稽古をしているけれど道具が無いのがよくないのか、ほとんど覚えられない。本を読んだり、付録のDVDをみたり、それでもなかなか覚えられない。ちょうどいま、NHKで「茶の湯 表千家」を放送中なのでこれを見て復習しようと思っている。

    なかなか覚えられない点前の中でおもしろいのはやはり「拝見」だ。亭主と客とが会話をするのはおもしろいと思う。茶席と言うのはそもそもそういう場所だ。喫茶店ではないんだからウエイターが黙ってテーブルにコーヒーをおいて行ったり、無口なマスターとカウンターをはさんで一人コーヒーを飲むなんてことはない。実際の茶席ではそういうことはないのだけど、稽古はそうも行かない。教科書をなぞるのもままならないのに、それ以上のことなんてできない。形をまねるばかりで、亭主と客とは、正しくは亭主役と客役とは、赤の他人を演じているのだ。これだからぎこちないのだとおもう。そんな中で会話を交わす瞬間はやはり良いものだ。決められたセリフを暗誦するだけとわかっていても楽しいものだ。

    そうは言ってもやはり、変なのだ。たしかに、茶碗の拝見をしてもなんにも分からないから、わかるようになりたいと美術館に足を運んだりして少しわかることができたような気がする。だけど、毎回のように拝見している棗と茶杓が全くわからない。違うけれど何が違うのか、違うからどうなんだ、と言うことがわからない。どこに目をつけたりどう見たらいいのか、さっぱりなのだ。頭の中は空っぽなのに「拝見をお願いします。」なんて言うのだからおかしな話だ。何もわからないと知りながら、棗の蓋をとって覗いてみたり、茶杓を裏返したりするのだ。なんて滑稽なんだ、これではイカン、と最近強く思う。空虚でない拝見を始めるべき時期が到来したに違いない。

  • 川喜田半泥子のすべて

    「川喜田半泥子のすべて」展のことを書かねばなるまい。間違いなく去年見た企画展では一番だった。ダントツの一番だった。もう一回ぐらいは見ておかならければと思う。岐阜県現代陶芸美術館からはじまり現在も巡回中で東京、横浜、山口、さいごに三重に帰ってくるみたいだ。

    何でもありでやりたい放題なものをいきなり見せつけられた。悪ノリかよというのもあった。遊びゴコロが最高に嬉しくて私はなんどとなく繰り返し感動した。半泥子と言う人は絶対にもう楽しくてたまらなかったのだ。笑いをこらえながら作ってたかもしれない。銘の感覚がこれまた痛快でいいのだ。とにかく半泥子をうらやましく感じた。

    自分の家に近所のお百姓を呼び出して、茶を点ててはのませていたらしい。その前で、あられを口にほおばって茶碗を片手でつかんで飲み干してみせたそうだ。何でもありなのか、そもそも何も無いというべきなのか、いやいやそういうことじゃないんだ、と妙に納得した展覧会だった。